亀屋もぐさの番頭福助

福助人形の由来には諸説ありますが、有名ところが三説ほど御座います。一つが京都の呉服屋「大文字屋」主人にまつわる話。京都では福助のことを「大文字屋」と呼んでいるとか。次は摂州西成郡にいた百姓佐五右衛門と言う人にかかわったもの。そして最後に「亀屋もぐさの番頭説」。今も伊吹もぐさ亀屋佐京商店のシンボルとして中山道を行きかう旅人の安全を祈願してお店に鎮座しています。

伊吹もぐさをあきなう亀屋には、おそらく天明年間(一七八一年以降)に生まれたと思われる番頭がいた。この番頭は正直一途、お店の創業以来伝えられた家訓をまもり、ふだんの日は裃を着け、扇子を手ばなさず、道ゆくお客さんに対しては、どんなにすくないあきないでも感謝の心をあらわし、おべっかをいわず、まごころで応えつづけた。そのため商売が大いに繁盛し、主人もたいそう福助を大事にしたのだそうだ。やがてこの話が京都にも広まり、伏見の人形屋が耳にして、福を招く縁起ものとして福助の姿を人形にうつしたという。福助人形はさっそく大流行し、商店の店先に飾られるようになった。

~荒俣宏先生著‘福助さん’(筑摩書房)より~

江戸末期の絵師歌川広重が刊行した「木曾街道六十九次」の柏原に、亀屋もぐさの福助人形を描いています。このことから少なくとも一八四〇年までには、亀屋もぐさには福助人形が鎮座していた事になります。また福助さんの奥様は「お多福」さんとか「おかめ」さんだとする説が有力です。「おかめ」さんは漢字で書くと「お亀」さんと書く場合が多く、亀屋佐京商店にも通じるものが有りませんか?

七兵衛と福助

亀は千年の齢を保ち、福は万物の長、助は万民の力、艾は百病の根をほろぼす。此店の番頭福助なるもの正直一遍にして元祖伝来の家風を守り、平日上下をたずさえ扇をはなさず、往来の人を招き、百両の商いより或いは十二文の旦那にも虚言軽蔑なきは義なり。商売繁盛して主人の気に入り、長の年月一言半句の無礼なきは是忠なり。終に伏見の人形屋へ、子供を分け、ねり人形・土人形と売広められけるに家伝の上下扇子を持ち、福寿を諸人にさずけ、身をたつは考なり。又礼もありて仁もあり、店番と成っては押込盗人万引を追ちらしけるはこれを勇なり。元人の形を現し商家は棚に祀り燈明を照らし又は上段床の間ら居り、百味の食を喰し福徳を司るは即ち神なり。千載万福の長たるを以て七福神の番頭に掲られ、福助ゝと言うは孝の終なり。七珍長寿ありたくは、加免やの艾をもとめ、上は天窓のてっへいよりちりけ、下は三里ゆびの先まで折々灸をすえて、とかく上気を引き下げ此の番頭の教えを常に守るべし。

長生きがしたくばすえよ二日灸

松浦氏応需 梅風酔墨

杉沢村住管宮川左衛門記之

亀屋佐京商店中興の祖

 七兵衛さんについて